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銃乱射と世界

「クロクス・シティー・ホール」、モスクワの夜の銃乱射事件は、2024/0322の夜。その映像がIS(イスラム国)によって公開され、182人以上が負傷、死亡者は140人を超える?煙の吸入が死因も?放火をして逃げたようだ?

ほんの14分間の出来事で、その後実行犯は急ぎ逃亡、でも直接関与の4人など11人の拘束、その場所が「ウクライナとの国境に近いブリャンスク」が不気味?ロシアは対ウクライナと戦時中なのに?どうなのか?火に油を注ぐ?と言う事態が心配になる?

① ウクライナ戦争とアラブの戦争

「彼らはウクライナ方向に逃走した」?で初期情報によると「ウクライナ側に国境を越えられる窓口が用意されていた」?そして襲撃者は現場の様子を撮影していて、それをISがさっそく流している?手柄話の拡散のようだ?ISは再々度犯行を主張し続け中?それにも報酬は付いているのかな?

でも、ウクライナ戦争は「ロシアの侵攻!」で開始(2022/0224)だった?世界のマスメディアは?「プーチンは独裁!絶対悪!討伐!」だった?あれから世界中の国々(米英+NATO+EU+日本)は?莫大な支援金と兵器をウクライナに無料供出中?自国の財政逼迫でも?兵器の枯渇になる程でも?この支援金と、爆砕し続ける兵器の代金って、世界中をインフレに巻き込込み中では?

そしてこのウクライナ戦争の最中(2023/1008)、パレスチナではハマスによるイスラエルへの爆撃があり、例のイスラエルの反撃、爆撃が苛烈をきわめている。子供達は既に3万人以上の死、そして食料飲料水を封鎖?兵糧攻めの残忍さ・この世界史的な残虐は記録されるだろう?21世紀の世界の戦争政治の動向が?

② 思い出される23年前、あの9.11?

何か思い出される? 9.11のニューヨークはトレードセンタービルに突き刺さった航空機の映像?世界中の市民達は息をのむような驚きの中で、英米軍のアフガン派兵を見送ったのだった?あの時、あっと言う間にアルカイダは討伐され、カルザイ政権が誕生、でもそれから20年間の内乱続きへ?

 で2021/0831に米軍の、自分達だけの完全撤退。逃げ出したい人々をカブール空港に「置いてけ堀?」。米軍の傀儡政権ガニ首相は真っ先に、ドル札をどっさりヘリに詰め込んで、アラブ首長国連邦へと逃げ出した。あのカブール空港?

そのアフガンの20年?米軍人の死者は2400人、一連の対テロ戦争の費用は8兆ドル(約880兆円)、そしてアラブ全域では、戦争によるアラブの人達、その死亡者数は90万人前後。有色人種の命はひどく軽い・・・

➂ 第二次大戦後のアラブは、何故戦争続きなのか?

ⅰ)まず?第一次世界大戦(1914/0728-1918/1111)の事

オスマン帝国の滅亡:最古の世界文明の地、チグリスユーフラテス川、そしてナイル川のあたりが中東地域?でも第二次大戦後のアラブ世界は戦乱に次ぐ戦乱?スエズ運河を巡って英米との戦い?アラブの春?ウクライナ戦争?パレスチナの子供達?この地域はアラブの原油利権が渦巻く地域で?英米仏の1%の側は、原油利権を押さえたい地域ではないのだろうか? 

ほぼ100年前に、オスマン帝国(イスラム教スンニ派、他宗教多文化に寛容で、領内の少数民族は独立した政治経済文化を許されて暮らした?)は第一次大戦の敗戦で滅んだ。その領土を巡って英国は3つの相矛盾する密約を八方と結んでいた。その三枚舌外交の中の1つの舌だけ?「イスラエルの建国」だけを通した英国?これがアラブの戦後の長い戦争の経緯?その引き続く原因になっているのでは?

http://b.mirai21canal.com/?eid=1020083

http://b.mirai21canal.com/?eid=1020085

イギリスの三枚舌外交

① フサイン・マクマホン協定アラブ人の統一国家樹立の約束の見返りに、オスマン帝国打倒へのアラブ人の協力を求めた。

② サイクス・ピコ協定:①のフサイン・マクマホン協定をアラブ人と結ぶ一方で、フランスとロシアとは、オスマン帝国支配地域を三分割する秘密協定を結んでいた。

➂ バルフォア宣言:オスマン帝国支配下のパレスチナの土地へ、ユダヤ人国家建設を認める約束をライオネル・ウォルター・ロスチャイルド卿との間で行っていた。

で、③のバルフォア宣言?だけを実行した英国、そして①②は騙しだった

ロスチャイルドの『金目』が動いたのか?どうか?

オスマン帝国とは:

https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=384

1299年(日本では日蓮が佐渡に流されたのが1271年?)に、オスマン1世が小アジアに建国したトルコ系イスラム国家。1453/0529(日本では応仁の乱は1467年)にビザンチン帝国(東ローマ帝国)の都コンスタンティノープルを攻め落とし,ここをイスタンブールと改めて首都と定めた国。地中海周辺のアラブ諸地域、バルカン半島をも支配下におき、アッバース朝滅亡後のイスラム世界の覇者として君臨。この国の政治は国内の少数民族の自治を認めて,それら宗教,習慣を保持せしめていたと言う?16世紀のスレイマン1世のころが最盛期。17世紀末から衰退に向かい、第一次大戦(1914/0728 – 1918/1111)に同盟国側で敗北、1922年のトルコ革命により滅亡へ。その領土が列強(英仏)の思うがままに区分けされて行った

ⅱ)やがて第二次世界大戦へ

1945の戦争終結の直後?2年9か月後の1948/0517、国連は2100年前の旧約聖書の記述にある古代国家をなぞるが如く?ユダヤ教の聖地エルサレムに、近代国家イスラエルの建国宣言?この地はアラブの原油埋蔵地域のど真ん中?莫大なユダヤ系の『金目』・財閥(ロックフェラー財団等)・金融資本達?そして戦勝国側英米の後ろ盾が?物を言ったのだろうか?

その半年前、1947/11に国連がこの地パレスチナ分割案を決議、その分割はアラブ人側に不利で、アラブ世界の反発は大きく、シリア、レバノン、ヨルダン、イラク、エジプト等のアラブ諸国、第一次中東戦争(パレスチナ戦争)が(1947/1130~ 1949/0720)勃発する?しかしイスラエルの軍備は圧倒的に強く敗戦へ。この時から多くのアラブ人がイスラエルの占領で土地を追い出され、ヨルダン、レバノン、シリアへと逃れ難民となる。

ⅲ)イスラエルの建国はアラブの戦乱の開始点? 

第一次中東戦争(パレスチナ戦争(1947/1130~ 1949/0720)は、エジプト王国などアラブ連盟軍の完全な敗北、イスラエルは更にパレスチナを占拠し国家建設へと動いた。

この時土地を失ったアラブ難民にとって、これが現在に続く苦難の始まり、イスラエルが独立宣言をした5月14日を「大災厄(ナクバ)」として記憶へ。英国の三枚舌外交の一つ、アラブ人の統一国家建設の約束(フサイン・マクマホン協定)は、当然のように反故だったの?

アラブ諸国の側は、戦闘能力の弱さを前に、1952年にはエジプトの自由将校団が王制打倒、エジプト革命から共和政へ、イラクでも政変が続き、パレスチナ問題は全アラブへ、イスラエル、背後の英仏、アメリカへと、戦後世界を大きく動かして行ったと?

ⅳ)第二次中東戦争・スエズ戦争(1956/1029~1107)

その頃のスエズ運河は、イスラエル、英仏の多国籍企業スエズ運河会社として掌握されていたが、エジプトはその国有化を宣言してスエズ戦争へ?その運河地帯、今ではエジプトの主権下に復している。

ナセルはこの時、農業近代化と耕地拡大のための灌漑用水確保、電源確保を求めてアスワンダムの建設計画も。当初は米国も支援予定、が米国のイスラエルへの武器援助で、ナセルはソ連から武器を得る姿勢となり、米国、世界銀行は援助拒否へと。

ナセルはスエズ運河国有化に踏みきり、運河会社の株を所有する英仏は強く反発して、エジプトと対立関係にあるイスラエルを誘ってスエズ運河地帯に出兵、スエズ戦争(第2次中東戦争)は勃発する。そのアスワンダムは1970年に完成するが、同年のナセルの急死をうけて、サダトへと政権は移動する。そしてダム建設によるナイル川流域の生態系バランスが大きく変化して、予想外の影響が下流地域に起こった事も報道される時代を迎えたようだ?)

何か?この2年前には?アルジェリア戦争・1954/1101~1962/0319が勃発、仏軍はスエズ戦争の勃発(1956/1029)の2か月半後(1957/0116)に、アルジェリアに空挺部隊を送り込み、全面対決へと進んだ?そしてそれから10か月の後1958/11に、FLN(アルジェリア民族解放戦線)がエジプトのカイロでアルジェリア臨時政府を樹立している?1962/0703に独立する。

このタイミングは?当時英仏軍の支援を受けたイスラエル軍はシナイ半島の占領へ?しかし国際世論はアメリカ・ソ連の双方が英仏を非難、英仏とイスラエルは国際的に孤立して、撤退を余儀なくされたと言う経過?エジプトのスエズ運河国有化が成った。そしてアルジェリア戦争の経過?この動きは繋がっていたのだろうか?

(つまりエジプトのナセルは戦争では敗れたが実質的には勝利、アラブ世界の英雄として、以後のアラブはナセルを中心にして展開へ向かう事に?この後ナセルは1958年、シリアとアラブ連合共和国で合同してアラブ世界の統合を目指すなど?しかしその試みは1961年にシリアが離脱したため失敗へ?ナセルは)

ⅴ)第三次中東戦争(1967/0605~0610)

イスラエルとアラブ(エジプト、シリア、ヨルダン)のこの戦争は別名「6日間戦争」。イスラエルの圧倒的勝利で6日で決着。ここでアラブ世界は歴史的転換点を迎える。この戦争後、中東戦争の対立軸は、イスラエル対アラブ諸国からイスラエル対パレスチナ(ゲリラ)へと転換、現在のハマスなどの勢力がゲリラ的にイスラエルに対抗する時代へと移った?

そして、イスラエルがこの戦争で占領したアラブ諸国(エジプト、レバノン、シリア、ヨルダン)の領土から撤退して返還すれば、その見返りとしてアラブ諸国もイスラエルという国家の生存権を承認する、という方向へと動いた。「領土と平和の交換」とも言われた時代へ?そしてナセルは1954年のムスリム同胞団による銃撃を体験して国民の支持を得て行った政治家だったけれども?1970年に急病死だと?そしてエジプトは、サダトの時代へと動いていった?

ⅵ)第四次中東戦争(1973/1006 – 1973/1025)

しかしサダト大統領(エジプト)は第3次中東戦争でイスラエルに占領されたシナイ半島の奪還を目ざし、同じくゴラン高原の奪回をはかるアサド大統領(シリア)と提携、イスラエルを南北から挟撃する戦略をたてて1973/10、イスラエル側の不意をついてシナイ半島に進撃(第4次中東戦争)し、緒戦で勝利を占めてイスラエル軍不敗の神話を崩したと。

しかしその後イスラエルの反撃を受け、それを支援するためにアラブ諸国が石油戦略を採り、石油価格が急騰するなど世界への大きな影響を広げる、オイルショックが勃発する。

ⅶ)第4次中東戦争とサダト大統領

しかし、シリアはゴラン高原奪回に失敗して、またシナイ半島でもイスラエル軍の反撃が開始され、エジプトは苦境へ。その1977年にサダト大統領は突然イスラエルを訪問して、イスラエルの存在を承認へ、そして対等な交渉相手として和平交渉に入っている。翌1978年にはアメリカのカーター大統領の仲介でイスラエルのベギン首相との会談へ、この展開は?サダト大統領はアラブの産油国は石油戦略を発動してアメリカなどの親イスラエル国家に圧力を加え、国際的に有利な情勢の下で和平に持ち込んだとされたが?

しかし、そして、1981/1006のカイロ市東部、第4次中東戦争を記念する軍事パレードを観閲中にイスラエルとの和平・イスラエル容認に反発する犯人の銃弾に倒れた、そう言う展開になったらしい?

ⅷ)イラン革命(1979/01)とその持続性

ここにエジプトとイスラエルの対立を軸とする中東の対立関係の解消、その後はパレスチナ=ゲリラを率いての反イスラエル闘争を展開するパレスチナ解放機構(PLO)のアラファトの動きがアラブの反イスラエルの動きとなってゆく?

その直前?イラン革命の勃発:(1979/01):当時イランのパフレヴィー朝は、アメリカとの石油資源の開発を進め、その利益の独占へむけて、いわゆる開発独裁の体制といわれて「白色革命」へ?この政治傾向、国内の西欧化を推進しての対米従属に対し、国民生活は貧困へと落ちていた。この中でイラン・イスラム共和政の樹立へ向けて、亡命中のパリからホメイニ師が帰還、イラン革命の進行、米ソ及びアラブスンナ派の国々(イランはシーア派)との敵対の中、この革命は守り通されている。

ホメイニ師はシーア派でアメリカ文化の模倣を否定、厳格なイスラームの日常生活の規範の復活、シャリーア(イスラーム法)が適用する司法、映画や文学、絵画もイスラームの教えに沿う事など、イスラーム原理主義の政治へ。

 ※日本でもあの頃は連日のニュースだったが、テヘランのアメリカ大使館占拠事件(1979/11~1978/01迄続く)は、革命政府が米国に亡命した国王の身柄引き渡しを要求したところ、拒否されて、革命支持のイラン人学生が激高して実行している?

こうしてイラン=イスラーム共和国の革命政権は1979から国号をイラン=イスラーム共和国へ、さらにメジャーズ(国際石油資本)が革命の混乱を避けて撤退したのを受けて、石油国有化へ踏み切り、資源保護の立場から石油輸出を制限する措置を打ち出し、結果石油の国際価格の急上昇、第2次石油危機をもたらしたという。

ⅸ) イラン・イラク戦争(1980-88)

イラン革命直後のイランに対しサダム=フセイン(イラク)がイランへと侵攻した戦争。宗教的対立、石油資源をめぐる対立が背景にあり、アメリカなどのイラクへの支援の中、イランは反撃、戦争は長期化(8年間)する。

 この戦争は、1980/0917イラクのサダム=フセイン大統領が、軍にイラン領内への侵攻を命じ、22日から戦闘が本格化、国際連合安保理は緊急に停戦を決議、イラクは受け入れたが、イランの最高指導者ホメイニ師は拒否し、戦闘が長期化することになった。

 戦争前半はイラク軍が優勢、後半はイラン軍が巻き返すという経過の中で、この戦争で初めて隣接する国が互いにミサイルで攻撃しあう最初の戦争となった。またイラク軍により化学兵器が使用され、被害が多くなったとも?

 イラン=イラク戦争ではアメリカとソ連、さらに周辺のアラブ諸国がイラクを支援したが、それは前年のイラン革命が拡大することを恐れたため?特に米国は前年のアメリカ大使館人質事件が続いており、1980/0407にはイランと国交を断絶、経済制裁を開始し、しかも0425には大使館の人質救出作戦に失敗?対イラン感情は最悪の状態の中で積極的にイラクに兵器供与を供与している。後の湾岸戦争ではイラクはその武器でアメリカを主体とする多国籍軍と戦うこととなったと言う。

 戦争は長期化し日本では「イライラ戦争」などと言われ、国際的に孤立したイランがようやく1988に国連安保理の停戦決議を受諾して戦争は終わった。

ⅹ)湾岸戦争(1991/01~02)

そしてその3年後には「クウェート」併合を求めたフセインのイラクに対して、この時はその撤退を西側も旧ソ連崩壊直後のロシアも同調し求める展開へ。しかしフセインは撤退に応じず、米国ブッシュ(G.H.W=父)大統領は武力行使を決定、多国籍軍の編成に及んだ。

多国籍軍:一般的には複数国の合同軍を意味するが,歴史的には1991年の湾岸戦争時の多国籍軍が有名。これにはアメリカを中心とする西側諸国やアラブ諸国が参加し,国連安全保障理事会の武力行使容認決議にもとづき,対イラク軍事行動を実施した。

この動きは?1991/0117にイラクのクウェート侵攻に反対するアメリカなどが,多国籍軍を結成して軍事攻撃を行い,イラクを破り,クウェートを解放した戦争だが、ソ連邦崩壊直後であり、フセイン政権はイスラエルに向けてミサイルを発射してパレスチナ問題との「リンケージ」をはかったが、米国がイスラエルの反撃を自重させ?中東全体の戦争には拡大せずに?100時間で決着、イラクは国連決議を受け入れた。

フセインの最後:当初の反イラン革命の世界政治の中で重用されたイラクの立場は?湾岸戦争以降は変化し、フセインは逮捕、拘留、処刑へ、そのウィキの記述が?詳しすぎるのでは?どうしてなんだろうか?とか思ったけど?

ⅺ)その後のオスロ合意(1993/0913)

その後、イスラエルはシナイ半島・ヨルダン川西岸は返還したが、ゴラン高原は依然として占領を続け、ヨルダン川西岸にはイスラエル人の入植が今も続き、パレスチナの人々は狭い地域を金網で囲われての生活へ、またどんどんと?ユダヤ系の植民は続いていた?

 でオイルショックは1970年代末に第二次を迎え、その時代の中で反イスラエルのゲリラ戦の指導者、アラファタが歴戦の闘志として登場し、1980年代を戦い続け、やがてオスロ合意(アラファトとイスラエルの合意)に至っている?その合意内容は以下の二点

1・イスラエルを国家として、PLOをパレスチナの自治政府として相互に承認する。

2・イスラエルは占領した地域から暫定的に撤退し、5年にわたって自治政府による自治を認める。その5年の間に今後の詳細を協議する。

 しかしこの合意は、2000年のキャンプ・デービッドにおけるアメリカを仲介とした会談の決裂を迎えて、イスラエル側は守らないため?第2次インティファーダの勃発により終了へ向かい、2004年には、そのアラファトの死を迎える事になる。

※インティファーダ(武器もなく、大衆的な投石等の抵抗)

 第1次インティファーダ:1987/1209にガザ地区でイスラエル人のトラックとパレスチナ人のバンが衝突事故を起こし、4人の死亡者を出したことがきっかけであった。暴力行為は1991年頃に下火となったが、1993/08のオスロ合意およびパレスチナ自治政府の設立に伴い沈静化へ。パレスチナ人の死者は1000人以上、逮捕者は数万人で多くは子供や若者だった?

第2次インティファーダ(アル=アクサ・インティファーダ):2000/0928イスラエルのシャロン・リクード党首・外相(後に首相)が1,000名の武装した側近と共にアル・アクサモスクに入場したのがきっかけ、暴力行為はアラファトが死去した2004/11月頃から下火へ、2005年中に沈静化と見られている。

第二次大戦後の中東の戦乱の来歴を考えると?

1948/0514のイスラエルの建国は?アラブ諸国・アラブの人々にとっての理不尽は大きいのかも?2100年前の国家の再興としてのイスラエル?イスラム教/キリスト教/ユダヤ教が共通に頂く旧約聖書の中の記述とはいえ? 2100年前とは?日本ならば弥生も中期・中国の歴史ならば前漢の武帝の頃かもしれない?

 そしてその後の2100年を連綿と代を重ねてきたパレスチナの人々、アラブ系の住人達にとっては?たとえば弥生時代から現代までを生きてきた日本社会を、武力で排斥、殲滅して、『金目」で土地を買い取る人々の集団がやって来たような?かもしれないし?パレスチナの人々の?2100年を暮らした人の?社会を営む権利は?金網で囲いつつ、イスラエルの首相自ら相手を「獣」として殲滅を公言というのは、酷すぎかもしれない?こうした新国家の建設が、アラブの人々に受け入れ難い事もうなづけるような気もする?

 それでもこのイスラエルの後ろにはユダヤ系の大富豪達がおり、『金目』的には軍備は最強に整える事が出来るだろうし、金融資本主義と言われる現代の経済システムを掌握しているだろうから、軍事力も原発も政治家の買収も、何でもできるだろうか?

そして何よりも?この国の地理的位置は、アラブの豊富な原油の埋蔵地域のど真ん中?英米仏?にとって原油利権確保のための、重要な拠点ではないのだろうか?原油利権への睨みとして、願っても無い条件を備えた新国家創設だったのかもしれず?しかし?そもそも地下資源を掘り出してその恩恵にあずかるべきは、その地域の住人?あるいは世界中の市民なのでは?戦争をもって資源を奪い?土地を奪い、その為に命を奪う?『金目』の為?みたいな事態ではない事を祈るけれど?それは大航海時代・植民地時代の白人達の「改めるべき方法論」のような気もしてしまう?

 現実的な解決策はどうなのか?イスラエルの新国家の設立が、ある意味中東戦争の根であることが見えてしまう?そんな感じでは?ないだろうか?

➃ そして9.11以降の動き

アラファト死去の3年前の事?20010911に、ニューヨークトレードセンタービルに突き刺さった航空機の映像?あれからの中東地域、アフリカの原油埋蔵地帯には、戦争がさらに引き続く時代を迎えた?事件から一月足らずで英米軍のアフガンへの派兵、そしてあっという間に政権転覆、新カルザイ政権(2002/06~12年間)の誕生へ?

そしてここから?米英国のアラブ世界への介入は次々、拍車がかかり?2003/0320から開始の米国が主体の英・オーストラリア・工兵部隊を派遣したポーランド等の有志連合が、イラクの武装解除問題を(イラクによる大量破壊兵器保持)を理由に?『イラクの自由作戦』の名でイラクへの侵攻・軍事介入を開始する。そして2006/1230のフセイン大統領のバグダードでの死刑執行へ、フセインは12/26の死刑確定からわずか4日目の処刑だった?

➄ オバマ大統領の「アラブの春」の失敗

そして2009年に黒人?オバマ大統領時代へ?その翌年に「アラブの春」は始まる。

アラブの春(Arab Spring):2010年(平成22年)から2011年(平成23年)にかけてアラブ世界において発生した民主化運動の総称。2010年(平成22年)12月のチュニジアでの「ジャスミン革命」から、アラブ世界に広がる。

①チェニジア(2010/12~2011/03)ベンアリ大統領の亡命へ・②エジプト(2011/01から2011/02)ムバラク政権の退陣・③リビア(2011/02~2011/08)カダフィ大佐の虐殺・④イエメン(2011/01から2012/02)サーレハ大統領の退陣。

アラブの春と言うべきか、冬というべきか?その後の各国の国民生活は動乱の中、カダフィ大佐のリビアが最も酷いだろうか?地域対立や部族対立が再燃し、激しい内戦に突入、イエメンやシリアの場合、外国からの介入も?総じて国民生活は内乱・動乱・独裁などと言われる中で、苦界に落ちた?

「唯一の成功例とされた北アフリカのチュニジアでも、民主化に逆行する動きが止まらない。21年7月に首相を解任して議会も停止し、国政を掌握したサイード大統領は自身への権力集中を一段と進める。大統領は民主化の集大成といえる「2014年チュニジア憲法」の改正を目指して7月25日に国民投票を計画しており、反対派との攻防は激しさを増している。」とか?

⑥ 「自由と民主主義」のゆくえ?

世界のマスメディア、それを仕切る西側の『金目』?『自由と民主主義!』というの掛け声の効果?

抽象的というのか?理想的?というのか?こういう掛け声で、世界市民に勘違いを誘っているような感じもしてしまう?

国民生活に大切な?食料は?住まいは?雇用は?賃金(分配)は?それを確かめながら?国民のいのちより美辞麗句の政治家達では?その『金目?』で動いている政治家は、これからはどうなの?「自由と民主主義」は?『金目』次第?かも。美しげな言葉の裏側?新自由主義は?貧困線すれすれを生きる99%を増やしてしまうような?1%の側に『金目』を集めたいのでは?

そうではなく、99%のいのちと生活を守り?次世代を産み育てる、そういう社会では?そういう政治が安心かもしれず?それをささえる?技術革新?イノベーション?かも?

「競争」や「自由」よりも「協働」では?食料増産・国土の涵養・生態系保全・雇用を増やし?安心を増やす経済社会では?

 「新しい「社会主義」 個々人の起業活動を支援、でも公共財的な所(水道事業・医療介護・公衆衛生・国防等)は私企業を入れず?公的・政府機関が握る?賃金決定方式は、ノルディックスタイル(経営側と労働者の合議)。マスメディアは市民参加の監視を必ず受ける事?最低生活保障を整える社会。いわば「新しい社会主義」。戦争経済まで行きたい「自由と民主主義」では、最後は破壊と戦争を求めるシステムに向かうしかない?

 21世紀の「自由と民主主義」は『金目』次第になっている?買収選挙と統一教会的な洗脳選挙?不安定低賃金社会の『自由』って言葉だけ? マスメディアの支配と戦争経済?超インフレは土地不動産の上昇?に金を廻してゆく?

①荒れた山林原野、耕作放棄地に手を入れて、食糧増産、国内物流の確保 「緑と生物多様性保全」-地球温暖化を抑える ②一生でも住まい続けられる、安価な公共住宅システム。増え続けている空き家に手を入れて、税金を繰り出して整えて行こう。引き籠りでもなんでも、動員されて手伝い、賃金を貰うシステム。そうして内需拡大に貢献だ。③今後もあり得る感染症対策は、平等で安心な医療介護システム、世界に学び効率化と質を求めながらの、税金投入事業、日本版ニューディール、税金で直接国民を雇い入れる事業を進める政権かも。

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